ゴーレムのうた

一番古い 最初の記憶

緑の樹木・・・ 大木だ
僕は車の車窓からそれを見上げている。
ゆっくりとしたスピード。
カーテンがゆれているから、ワンボックスカーの後部座席かもしれない。

車のエンジン音は聞こえない。ただ風の音が僕を包んでいる。
両親の、兄弟の笑顔に包まれているような暖かい心象。


その次にあるイメージは保育園の建物の裏、雨どいやマンホールが壁と塀の狭い隙間に点在している。
土のぬれた感触。
抜き忘れた雑草と、幼児の手には大きすぎる小石の間をダンゴ虫が這いまわる。
僕はもう泣いていない。涙をこらえて地面をほじくり返している。
もし空虚という言葉を知っていたら、この保育園の居心地の悪さも、送り迎えの憂鬱も説明ができたんだろうと思う。

からっぽの僕 たった3歳だか4歳だかの年頃で理屈で考えるなんてできなかったと思うけど、誰にも心を開くことができなかった子供の頃の僕。

保育園に行くのが嫌でいやで、泣いてぐずってばかりいた。
送り迎えの車のなかでドアを開いて飛び出せば終われると真剣に思った。
真剣に思ったから今も残る空っぽの心象。

姉さんは僕の友達だったから、よく一緒にお風呂に入ったり人形遊びをしたり、レコードを聴いた。
およげたいやきくん、一本でもにんじん、小鹿のバンビ、マザーグース。

何度も何度もかけているうちにレコードは傷ついて音が飛ぶようになった。
こじぃ~か~のーバンビーヴァンビーヴァンビーヴァンビーヴァンビーヴァンビーヴァンビーヴァンビーヴァンビー。。。。
姉と二人で大笑いして何度も何度もそれを繰り返し、声に出してモノマネしてまた笑い、レコードをおもちゃにしていた記憶と同時に、それが僕の死生観を勝手に創り上げた。

きっとしんだらもういっかいもどるんだ。
せっかく5さいまでがんばったのにもういっかいこんなくりかえしはいやだ。

それが僕が車のドアを開いて飛び降りなかったたった一つの理由だった。

本当に楽しかった記憶と、今なら笑い飛ばせる憂鬱だった記憶。




にっくんは兄貴の彼女の弟で、僕と同じ年だった。
学区が違って僕は駅を越えた東口、にっくんは西口で比較的多摩川や向山に近いところに住んでいた。
兄貴にしちゃまじめな恋愛で、家族ぐるみのお付き合いもあって、夏休みには僕らの家族と一緒に三宅島に泊まりにいったりもした。
小学校4,5年生の頃の事。

僕の幼馴染のヒデも一緒になってよくにっくんの所へ遊びに行った。
本格的な川遊び、山遊びを教えてくれたのもにっくんだったし
ターザンロープへの獣道もにっくんに探検に誘われて見つけた場所だった。

明るく活発でいつもみんなの中心にいる。
なんでも楽しいことにしてしまう才能があって、一緒にいるだけでつまんない遊びが輝いてしまう。

そんなある日、当時はまだ高かったカセットウォークマンを僕の耳に押し込んでにっくんは言った。
「バンドやろうぜ!」
聞いたのは X(エックス) の『紅』。
「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない・・・」

正直さっぱりわけわかんなかったし、かっこいいのか悪いのかさえ判断できない。
でもなんかすげーことができる予感がした。

親にねだって御茶ノ水の楽器屋さんで3万円くらいのエレキギター入門セットを買ってもらった。
安物メーカーの黒いストラトタイプに小型のアンプとシールドと「1週間で上手くなる」とか表紙に書いてあるうさんくさいペラペラの教則本のセット。
実際、そんな教本で上手くなれたら苦労はしないし、楽譜やTAB譜の意味すらわからないガキんちょにとってあってないような教則本。

ギターはにっくんの親父さんが最初の手ほどきをしてくれたけど、僕自身ギターを持つ前に燃やしていた情熱は、手ほどきの段階でなんだかめんどくさくなってジョウロで水をかけたみたいにあっという間に消えてしまった。

もちろん最初のハードルがエックスなんてハイレベルだったってのもあるけど、にっくんにバンド練習に誘われるたびにだんだん嫌になって、いつの間にかギターはホコリをかぶり、僕は別の仲間と別の遊びに熱中するようになった。

ただ、ギターもエックスも受けつかなかったけど、家で夕飯を食べながら歌謡番組を見ていたとき、直感で(僕は将来ブラウン管の向こう側に行くんだ)って核心めいたものは感じていた。
あのテレビのステージでマイクを握る自分をイメージするのは簡単だったし、自分を表現することのできなかった当時に、表現手法としての歌手が目に飛び込んできた初めての瞬間だったのかもしれない。



いろんな要素が詰まって一人の人間の人格が出来上がるから、僕が前向きに生きるようになった理由なんて一つの出来事では語れない。

そんなのだれでも当たり前だと思うけれど、当たり前の事をもう一度再構成しなおして自分の部品を手に取ることはなかなか難しい。


成長するにつれ、どうして子供の頃あんなに閉鎖的だったのか考えられるようになってきた。
何度も反復して、記憶をまたいで考えるようになった。

中学生の一時期はとにかく本を読み漁った。
中学生でもわかるレベルに噛み砕いた、「君たちはどう生きるか」だったか、コペルニクスやニーチェを題材にした道徳書のようなものからフロイトの解説書や精神病者の著書など、自分の存在理由を明らかにしてくれる言葉を必死でかき集めた時期もある。

自分が存在表明するための何かきっかけをつかみたかった。


生きるってなに?


生きてる意味ないじゃん。


でも生きているから理由がほしい。


生きたくない。でも死ねないから。。。



人生は実験だ。
生きるためにどうしたらもっと自分らしくいられるのか。
どうしたらもっと自分が好きになれるのか。
何をしているときに、本当に自分は楽しんでいられるのか。

人生に成功と失敗があるなら、自分の親父は失敗の典型だとあの頃は真剣に思っていた。
大人になって親父のようにはなりたくない。
ならないためにどう生きればよいかを探した。

そして、心理学系の本の中にあった言葉が僕のなかでひとつの大きな指標になった。

 人生は大きく分けて二通りの生き方があり、ひとつは親を憎んで親と違う道を歩んでいるつもりが、いつのまにか親と同じように生きてしまう道。
 もうひとつは、親を許し、理解して本当の意味で憎しみに呪縛されない自分の人生を切り開くというもの。


思春期にこの言葉を文章としては理解しながら、ホンネのところで許すことの意味がわからず、でもポジティブに生きなくてはいけないと強く思いながらジレンマにもまれ続けた。



新潟の専門学校で周りの人間すべてを敵に回してしまった冬の日。
しんしんと降り続ける雪のなか、毎日 学校から2Kmほどの寮に歩いて帰った。
道路の両脇には3mくらいの雪の壁がそそりたち、圧雪車で踏み固められた道路は異様に広く感じられる。

集落の途絶えたところから少し行ったあたりで、道路沿いに川が流れている所がある。
街路灯もまばらな光しか照らさない夜の雪道から、所々雪に隠れた寒々とした川を見下ろす。

この場所に来るたびに僕は何度も飛び降りたら良いと思った。
死ぬことを覚悟した人間は寒さに震えることはない。
手すりにもたれて川を見下ろしながら、それでも体の内側の熱さに背中を押されて嫌いだったねぐらへと帰っていった。


いろんな失敗や挫折があるたび、憎しみに向こうとする心を必死に軌道修正して無理やり前を向かせて歩いた。
時には体は前に進んでいるのに頭だけ後ろ向きにくっついているようなこともあったけど、思春期っていう長い迷路の出口までなんとかだましながらポジティブで在り続ける努力をした。




一年ずつ年輪を刻む樹木のように、あんなに不確かだった思春期のころから今の自分を比べれば、僕が僕らしく生きることができるようになってきたなぁと思える。
自然環境を社会に置き換え、雨やら嵐やら、獣にしいたげられて曲がらなければ生きれなかったころの自分が、枝葉を伸ばし幹を太くし、ようやく多少の物事にも動ずることなく生きれるようになってきた。


川底の岩が水流にさらされ、川底を転がりながら角を落としてゆくように、年月が僕と親との間にあった素直になれない棘も丸くしてくれた。

許すことはその人の生き方を知ることだと思う。

そうせざるをえない理由や原因があり、それを理解できたときに時間をかけて自然とほぐれてゆくものだと気づいた。



一番古い最初の記憶
3歳で引越してそれまでかわいがられていた保育園から、急に見知らぬ人ばかりの保育園に移らされた混乱。
若かった両親の生活苦やいろんなそのときの状況もあるから、それらがすべてじゃないとしても、幼児期の空虚は年月を経て埋まった。


恐怖の本質は未知だ。
知らないことが怖いから逃げ出してしまう。
知ってしまえば、回避のしかたも考えられるし対策も打てる。
自分自身の恐怖と向き合うことで、前に進むことができるなら戦う価値はあると思うんだ。


ゴーレムは魔道士に呪いをかけられた、つちくれに生命を宿した架空のモンスターだ。
メルヘンに置き換えればピノキオもゴーレムの一種。
呪縛から解き放たれない限り、ピノキオは人として生きることができないように、自分の呪縛を解き明かす冒険に出るのもメルヘンチックで面白いのかもしれない。



080421xxx

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