コインロッカーのネジ

15の夏休み 兄貴がバイクの事故で死んじまった。
もともといじめられてばっかだったし、年も6歳違って共通の会話もなかったから慰霊室で家族全員が泣いている中、僕だけは悲しいというよりも人の生き死にがあまりに突然訪れるということにショックを受けた方が大きかった。

僕は兄弟の仲では兄→姉→僕→妹の順に3番目の次男。
物心ついたときには兄貴はやっかいな存在で、本人は遊んでくれているつもりなんだろうけど年齢差がありすぎて、ボクシングごっことかプロレスごっことかキャッチボールにいたっても楽しいというよりも苦しかったり痛かったりの方が多くて、兄を避けて3歳年上の姉と一緒に良く遊んでいた

  『生きている』ということは、決して当たり前のことなんかじゃない。

殺しても死なんだろう・・・と何度も思った兄貴が、夜の10時頃に友達の所へ遊びに行ったまま3時間後に慰霊室に横たわっている。



兄貴が死んだ後、両親は壊れてしまった。
子を亡くす親の気持ちは僕はわからないけど、その兄弟の気持ちならわかる。
僕らだって十分悲しいのに、親にとっては死んでしまった兄貴以外、生きている僕らのことすら目に入らなくなってしまう。
もともと精神的に弱かった父親は深刻に殻に閉じこもって、朝から酒を飲んでしかめっ面のまま身動きひとつしないで居間に何時間も居座る。
母親はそれでも家族を支えるため、膠原病を患いながらも仕事に体を酷使し続け、形式的な愛情を注ぐのがやっとの状態。
身内が亡くなった時ってのは、本当に家族がバラバラになってしまう。
僕が自分の誕生日を嫌いになったのは、夏に身内が死ぬからだ。
                                          (2001年8月末日に父も他界した)




1月12日に掲載した『コインロッカーのネジ』という日記はちょうどこの頃のエピソードです
                                              (↓以下全文)


16才のころ どうしようもなく自分の居場所がなくってしょっちゅう家出をしていた。
父親が酒飲みで、朝から仕事もせずにぐだぐだしてたし、母は家計を支えるため8時過ぎまで帰ってこない。

家出が発展しすぎてマウンテンバイクに簡易コンロやコッヘル、折りたたみ式の包丁まな板セットと一人用の小型テントを積んで一週間 いろんな公園や川原を寝床にしながら高校に通ったことがある。
授業が終わったら近くのスーパーに行って簡単に調理できる食材やカップスープのもとなんかを買ったり、ちょっぱったりして、自転車でいける範囲の【今日のお宿】をさがすのだ。

ガキのころから遊んでいた多摩川で焚き火を起こしてボーっと眺めながらすごしたり、中学の陸上部だったころの競技場で、秋川にある大きなグランドつきの公園にテントを張って、真夜中に一人で走ったりした。
当時はMP3プレイヤーなんて便利なものはなかったから、CDウォークマンを聞きながらテントの中 大きめの懐中電灯の明かりで本を読んだりした。
あのころ好きだったのは ベンEキングの「Stand By Me」とかB'zの「Pleasure」って曲。
特に岡村靖之のCDはかなり聞き込んでいて、久しぶりにカラオケに行っても歌詞を見ないで唄えるくらいかなり覚えている。

真夜中の公園ってのはいろんな危ない人たちも集う場所で、アンパンかじったおにいちゃんに2時間くらい世間話に付き合わされる羽目になったり、ゲイの集うトイレというのがあって知らずに用をたしたら、後を付けてくるおっさんに声をかけられたこともあった。
まぁ、どちらも話してみると意外と怖いこともなくて何事もなく開放されたんだけど、いい社会勉強になったな。

福生駅から多摩川に向かって下ってゆくと川沿いに大きい広場になってるところがあってそこでテントを張ったときのこと。
飯も食い終わってそこらへんを散歩しているときに泣き声のする段ボール箱を見つけた。
案の定中には子猫が捨てられていて、無条件で僕の仮宿にご招待してあげた。
コンビニに行って牛乳を買ってコンロで少しあっためて飲ませようと思ったんだけど、やっぱなかなかうまくいかなくて、それでも寝ている間にお食事はすませてくれていたので少し安心。

問題はこの子をどうするべきかで、とりあえず翌日テントやコッヘルの間に猫をしまいこんで高校に登校。
一限目が始まる前にクラスで飼える人を探すんだけど、さすがになかなかいなくて授業が始まってしまう。
しょうがないからまたバックにしまってチャリンコ置き場に僕のマウンテンバイクと一緒に置き去りにすることにした。
授業の合間に様子を見に行きながら、新しい飼い主を探し続けてみたんだけど成果もなく、確か3時間目が終わったころだったか、見に行ったときにバックの小さい隙間から逃げてしまっていた。

居場所のない感じって一言で言い表せないんだけど、僕もあの猫と同じなんだなってその時思ったんだな。
そのままどっか遠くに行きたくなって、電車に乗っていける限り遠くまで行った。
行き先なんてどこでも良かったんだけど、気づいたら終点は千葉の銚子市。
夜の道を重いバックをしょって海まで歩いた。
ドブ沿いの道には車に轢かれたカニがへばりついていたり、腐った水の匂いがしていた記憶がある。

テントで寝ていると朝が来るのが早い。
日の出とともにジリジリと温度が上がっていってとても寝てられないんだ。
でもおかげでいつも絶好調な太陽と挨拶ができたし、この時も海と空の中間で波に向かってオレンジ色の光線を出してる日の出にもめぐり合えた。
早朝ジョギングのおっさんが海辺の道を走ってきて、僕のテントを見て不審そうな表情で通り過ぎていった。
でもそのときに漠然と思ったのが、居場所なんて他人の間に作るもんじゃなくて自分自身が居場所なんだって感じ。
あの猫がそうだったようにさ。

東京にまた戻って 例の秋川のグランドのある公園でテントを張っていたら、また変質者系の大声で叫んでる声が聞こえてきた。
さすがにその時で6日目だか7日目だかでそんなのにも慣れていたんだけど、遠くの方で聞こえていた声が段々近づいてくる。
ようやく言葉が聞こえるようになって、なんか人の名前を叫んでいるんだなぁって思った直後くらいに突然テントが揺さぶられて僕の名前を連呼しながら母親が入り口のファスナーを開けて入ってきた。
遠くで聞こえていたのは親父の声だったみたいで、すぐに僕は捕まって強制送還されるわけだけど、落ち着いてから話をしていたら、まさか僕が学校に通っているとは思いもしなかったみたいで、夜になるたびいろんな公園やら山やらを探し歩いていたみたいだ。
親父もおふくろも灯台もと暗しとは言ったもんだけど、今になって思えば僕も本当は居場所があったんだなって。
自分のために用意されていないと感じる居場所でも本当はちゃんと用意された場所であって、いなくなったらそこは周りの人にとっては大変なことなんだよね。
その当時は気づけなかったことだけどね。




コインロッカーのネジは当時好きで読んでいたマンガのタイトルでした。
古本屋にいったら同じ作者の本が売っていて、久々に読みたくなって思い出した、僕のエピソードでした。。。


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日記を掲載してすぐにたくさんの方からの反響があった。
同じように苦しみを抱えている思春期の学生や、障害を持ちながらも懸命に前に向かってがんばっている方 捨て子という環境にも負けずに笑顔で生きている方

愛されたい時に愛してもらえない苦しみを乗り越えてみんな生きている。
でも 『生きているってあたりまえのことではない』 し自分の命であっても自分だけのものではないという事

親の気持ち子知らず、子の気持ち親知らず 一度腹から生まれ出てしまえば例え我が子であっても別の人格をもった他人になってしまう。
親子でも思いを伝えることって難しいから、生きるのは困難だけど、乗り越えて初めて見えてくる事ってのは、自分が親になったときに同じ間違いを繰り返さないためにもすごく大切な経験になると思う。


今、悩みを抱え暗い淵を歩いていたとしても前に向かってゆっくりと進んでゆけば、いつかは光が見えてくるから『ろくでなしブルース』じゃないけど、憎い敵と真剣勝負しても戦い終わった後は友情が芽生えてたりするじゃない?
孤独と戦えばいつかは孤独が味方してくれるようになる日も来るし、それを僕みたいにこうやって伝えてゆける日も来る
守りたい人の為に力を出すときって、どれだけ自分と向き合ってきたかが強さに反映されたりもする。

つらいときは誰でもあるんだよね。。。
 だから 自分自身の戦い 前を向いて歩いていこうね!



070212xxx

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